不昧の茶道ネットワーク
荒井 一掌(あらい いっしょう)
享保11年~文化元年(1726~1804)
幕府茶道頭。本名を荒井三郎兵衛という。閑市庵、古帆、一青、宗音などと号した。
志村三休(三榮。無事庵と号す)に就いて三斎流を学び、また駿河の白隠慧鶴に就いて9年間修行を重ね、一掌の号を授かる。
不昧は、一掌に三斎流を指南し、家臣の高井宗休や林久嘉、矢島金鱗にも一掌のもとで茶道を学ばせている。
有澤 弌通(ありさわ いっつう)
?~安永5年(1776)
松江藩家老。字を子貫、龜峯といい、一歩庵、宗佚、文亀斎と号した。通称能登。
初代有澤織部直玄は寛永年間に初代藩主松平直政に仕えた家老で、弌通は五代目にあたる。
石州流の茶道に長け、不昧の幼少期には茶道の指南役だったが、長じては不昧に学んだ。
有澤 弌善(ありさわ かずよし)
?~文化7年(1810)
松江藩家老。字を君鷹といい、明々庵、宗意、菅田庵、向月亭と号した。
通称織部。茶道を不昧に学び、明々庵、宗意の号を授かる。
安永8年(1779)、不昧は弌善のために有澤家本邸内に明々庵を建立し(現在は松江市北堀町に移築)、
また寛政4年(1792)には有澤家別荘地であった菅田山荘内に御風炉屋と菅田庵(重要文化財)の建築を指図した。
三代 伊佐 幸琢(いさ こうたく)
?~文化5年(1808)
幕府の茶道数寄屋頭。半寸庵と号した。初代幸琢は、片桐石州の高弟、怡渓宗悦に茶道を学んだ石州流伊佐派の開祖。
父の二代幸琢に茶法を学び、三代目となる。
不昧は、明和5年(1768)に三代幸琢から正式に茶を学び、その2年後には真台子の伝授を受け、
また利休の茶湯を伝える秘伝書の一つである南坊本録の書写を許可された。
観月庵 恵海(かんげつあん えかい)
?~文化8年(1811)
松江の天台宗普門院第9世。名を宗顕といい、得々庵、観月庵と号した。荒井一掌に三斎流を学んだ不昧の家臣、高井宗休に茶を学んだ。
普門院内に建てた観月庵には、不昧もしばしば訪ねている。出雲地方に三斎流茶道を広めた人物としても知られる。
朽木 昌綱(くつき まさつな)
寛延3年~享和2年(1750~1802)
丹波福知山藩朽木家第八代藩主。龍橋、不見庵、宗非、子言、入道公と号した。幼少の頃、当時流行していた国内外の古銭収集に没頭し、
長じて蘭学研究に勉め、蘭学者の前野良沢や大槻玄沢、オランダ商館長チチングらと交際し、
『蘭学階梯』(天明3年/1783刊)序文、『泰西輿地図説』(17巻/寛政元年/1789刊)などを著す。
不昧の妹幾百姫(きおひめ)の婿にあたり、茶湯の弟子として不昧と親しく親交を結び、名物茶器を所持していた。不昧が記した龍橋宛の書簡が多く残されている。
酒井 宗雅(さかい そうが)
宝暦5年~寛政2年(1755~1790)
姫路藩酒井家第二代藩主。名を忠以(ただざね)といい、一得庵、宗雅、逾好庵と号した。
安永8年(1779)25歳の時、幕府から日光諸社堂修理を不昧とともに命じられたことで知遇を得たといわれ、不昧に茶道を学び、天明7年(1787)には石州流茶道皆伝を受けた。
寛政元年(1789)、参勤交代の途次で不昧と落ち会い茶事を催し、その際に中興名物茶入「吹上文琳」を不昧に、翌年には不昧から茶道秘伝書一括が贈られた。
また、作法について質疑応答した勘弁書状のやりとりなども遺っており、同じ大名茶人として格別親交の深かったことがうかがえる。
雅号「一得」は不昧が授けた号である。盛んに行った名物茶道具の蒐集は、36歳病没後、遺言によって不昧に渡った。七歳下の実弟は、江戸後期の琳派画家、酒井抱一。
坂本 雄峰(さかもと ゆうほう)
?~天保4年(1833)
名を一茶といい、一閑庵、雄峰と号した。江戸格式奥列にて奥家老及守役を勤め、禄高130石となる。
立花に長じ、文化2年(1805)帰国の際不昧に伴い京都池坊に立花を学び、同3年(1806)、不昧隠退後は御側坊主となる。
文化年間に不昧が度々湯治に赴いた玉造温泉にも同行している。
根土 宗静(ねづち そうせい)
生没年不詳(1833)
出雲広瀬藩茶道方を勤める。茶道を不昧に学び、孤輪庵、江山の号と茶名宗静を授かる。
不昧引退後も側に仕え、文化8年(1811)に不昧から一畳半極秘伝の伝授を受けた。
藤井 長古(ふじい ちょうこ・父)
天明4年~安政元年(1784~1854)
松江藩茶道頭。幼名を新次郎、秀俊と称し、松江藩の茶道頭藤井超古の養子となり、長古と改名し家督を継いだ。
昧の寵愛厚く、提起庵の号を授かる。
藤井 長古(ふじい ちょうこ・子)
生没年不詳
松江藩茶道頭。父提起庵に茶道を学び、家督を継ぐ。不見庵、宗古と号した。
正井 道有(まさい どうゆう)
?~天明2年(1782)
松江藩茶道頭。空味と号した。遠州流を学び、享保16年(1731)に父宗有を継いで25石5人扶持、大番組士となる。
同19年(1734)には茶道師範となり、五代藩主宣維、六代藩主宗衍に茶道を指導し、幼少の不昧にも茶を指南した。