茶人松平不昧の世界

VOL01

松平不昧とは

しまねバーチャルミュージアム-茶人松平不昧の世界

松江藩七代藩主である松平不昧は、不昧公、とか不昧さん、と親しみを込めて呼ばれることの多いお殿様ですが、 不昧は号で本名ではありません。名は治郷。江戸時代後期の大名茶人として知られています。 藩主としての務めを果たしながら、茶道を究め、名物茶器の蒐集を行い、さらに茶道具の研究成果を著作としてあらわし、不昧流茶道の祖となった不昧。

それだけでなく、国元であった出雲地方においては、地元 の工芸美術の振興に大きく貢献し、茶道を通した芸術文化発展の基礎を築いたのです。 このホームページでは、茶人としての不昧にスポットをあて、出雲地方に残される不昧の美意識のいきづく茶道具の数々をご紹介していきます。

松平不昧略年表

寛永4(1751)1歳 2月14日 江戸赤坂の藩邸に生まれる。父は六代藩主天隆院宗衍(むねのぶ)、母は側室大森歌(うた)。幼名を鶴太郎という。
宝暦7(1757)7歳 初めて書を細井九皐に学ぶ。
宝暦8(1758)13歳 3月16日 初めて弓、槍を学ぶ、弓の師は永田五兵衛、槍の師は脇坂十郎兵衛。
5月 9日 初めて刀術を学ぶ、師は一川五蔵。
10月18日 仙台侯二十二世伊達忠山宗村の第九女より子姫(しずひめ)と定婚。
明和元(1764)14歳 11月1日 江戸城初登城。十代将軍家治に拝謁。
12月21日 元服の礼、治好(はるたか)を名のる。
明和3(1766)16歳 8月5日 江戸を発し、初めて出雲国に出向く。
明和4(1767)17歳 11月27日 父天隆院致仕により、佐渡守治好に襲封。
12月 7日 名を出羽守治郷と改め、雲州松平家第七代の藩主となる。
明和5(1768)18歳 初めて正式に石州流茶道を三世伊佐幸琢に学ぶ。
明和6(1769)19歳 初めて禅を大巓和尚に学ぶ。この頃、無学和尚から「未央庵宗納」の号を授かる。
11月13日 七代藩主として初の出雲国入国。
明和7(1770)20歳 9月7日 「むだごと」を記す。
明和8(1771)21歳 大巓和尚より「不昧」の号を授かる。
安永元(1772)22歳 11月9日 槍の奥秘伝を脇坂十郎兵衛から受ける。
安永3(1774)24歳 12月9日 伊達姫を迎えて婚儀を挙げる。
安永4(1775)25歳 3月22日 茶事を催す。(現在知られている不昧の茶事会記中最も古いもの)
安永6(1777)27歳 7月22日 家老朝日丹波の辞職を許す。
安永7(1778)28歳 4月 父宗衍の50歳の賀のため寿像碑を松江月照寺に建てる。
安永8(1779)29歳 5月16日 日光山諸社堂の修復を命じられ、酒井宗雅はその助役に命じられる。
この頃 家老有澤家に明々庵を建てる。
天明7(1787)37歳 春 自著「古今名物類聚」(ここんめいぶつるいじゅう)の序を著す。
天明8(1788)38歳 9月18日 参勤交代の途次、東海道見附駅にて宗雅と行き会い、茶事を催す。
寛政元(1789)39歳 4月25日 参勤交代の途次、東海道柏原駅にて宗雅を行き会い、茶事を催す。
「古今名物類聚」第1回出版(雑記の部等5冊)
寛政3(1791)41歳 9月6日 赤坂の藩邸で第一子生れる。幼名鶴太郎、のち斉恒(なりつね)。
12月25日 「古今名物類聚」第2回出版(7冊)
寛政4(1792)42歳 この頃菅田庵を建てる。
寛政6(1794)44歳 9月22日 「古今名物類聚」第3回出版(3冊)
12月16日 少将に任ぜられる。
寛政9(1797)47歳 夏 「古今名物類聚」第4回出版(3冊)完結。
文化元(1804)54歳 11月23日 世子鶴太郎元服、斉恒と称し、従四位下侍従出雲守になる。
文化2(1805)55歳 10月1日 藩主としての最後の参勤。
文化3(1806)56歳 3月11日 致仕を許され、11の茶室を備えた品川・大崎下屋敷へ隠居する。
3月19日 剃髪して不昧を公称する。
10月27日 大崎下屋敷全体を使った大茶の湯会を催す。
文化5(1808)58歳 2月27日 退隠後初めての帰国。
文化8(1811)61歳 2月 「瀬戸陶器濫觴(上中下三巻)」を著す。
文化9(1812)62歳 10月  京都大徳寺孤篷庵内に大圓庵及びに茶室を起工する。
文化14(1817)67歳 1月25日 京都孤篷庵に寿像碑と庭園竣工にあたり、大圓庵の茶室披きの茶会を催す。
文政元(1818)68歳 4月24日 江戸大崎で逝去。法名は生前に自ら定めた大圓庵前出雲国主羽林次将不昧宗納居士。

不昧家系図

しまねバーチャルミュージアム-茶人松平不昧の世界
  • 父 宗衍(むねのぶ)
  • 正室 より子(せいらくいん よりこ)
  • 弟 衍親(のぶちか)
  • 妹 幾百姫(きおひめ)
  • 弟 定静
  • 嗣子 斎恒(なりつね)
  • 養子 善巧(よしかず)
  • 四女 幾千姫(きちひめ)

参禅の師略歴

無学 宗衍(むがく そうえん)

享保6年~寛政3年(1721~1791)
大徳寺第378世。塔頭玉林院第10世。把不住と号した。表千家七世如心斎宗左に茶を学び、如心斎、川上不白、一燈らと七事式の制定に参画した。 不昧は大巓和尚よりも早い時期から無学和尚と親交があったとみられ、生涯通して使用した「宗納」号と青年期に使用していた「未央庵」号を考案する際、不昧が相談を持ちかけた書状が残されている。

大巓 宗碩(だいてん そうせき)

享保20年~寛政10年(1735~1798)
大徳寺派天真寺第九世。山庵と号し、元は渋谷・祥雲寺の東天和尚の弟子で、天真寺七代宗誠和尚に就いて禅修行を行う。 不昧が19歳の時初めて禅を学んだのは、この大巓からである。天真寺は、初代直政の夫人慶泰院と三代網近の夫人泰雍院の墓があり、不昧は度々墓参りに赴く内に和尚と親しくなったと推測される。

寰海 宗晙 (かんかい そうしゅん)

宝暦2年~文化14年(1752~1817)
大徳寺415世、孤篷庵7世。一瓢子、随縁道人と号した。寛政5年(1793)火災で孤篷庵が消失したが、遠州に私淑する不昧の援助のもとに同年再興した。 現在の「忘筅」席(重要文化財)はこの際再建されたものである。その後、筑前崇福寺に住し、文化3年(1806)に孤篷庵に戻る。 晩年は、不昧が位牌堂として孤篷庵内に建立した大圓庵の中興となる。

大鼎 宗允(だいてい そういん)

安永4年(1775)~天保3年(1832)
大徳寺439世、孤篷庵第8世。寰海和尚示寂後の孤篷庵主として不昧と親しく交流した。不昧没後に制作された不昧画像には大鼎が賛をしたためている。

不昧の残した言葉・出版物

雲州蔵帳

不昧の所有した茶道具コレクションの総目録を指す。 不昧自筆のものとしては「道具帖」があり、松平家の蔵番が記録した蔵方蔵帳をはじめ、現在諸本が知られている。 不昧は生涯にわたり茶道具の収集を行い、出入りも多く流動的であったが総数800余点を数えたという。 その膨大なコレクションを自らの審美眼に従い宝物之部、大名物之部、中興名物之部、名物並之部、上之部、中之部、下之部の7つのランクに格付けし、 伝来や購入年、当時における評価額、購入金額までも記録している。雲州蔵帳記載の作品で今日国宝、重要文化財に指定される作品も少なくない。

出雲地方に残る雲州蔵帳作品 

  • 「茂三茶碗 銘 秋風」(絲原記念館)
  • 「石州作 竹花入」(可部屋集成館)
  • 「井戸脇茶碗 銘 有明」(可部屋集成館)
  • 「瀬戸金華山手芋の子茶入 銘 京童」(田部美術館)
  • 「存星竹雀香合」(島根県立美術館)

古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)

寛政元年(1789)~同9年(1797)にかけて不昧が陶斎尚古老人のペンネームで刊行した名物茶道具の図説書。 茶入の部7冊(中興名物5、大名物2)、雑の部(後窯・国焼1、天目茶碗1、楽焼茶碗1、雑器の部2)、拾遺の部4冊、裂の部2冊の計18冊。 不昧自ら実見したものは詳細な図版入りで所蔵者や法量、付属物までも詳細に記されている。

和漢茶壺鑒定(わかんちゃつぼかんてい)

文化8年(1811)筆。瀬戸陶器濫觴とも称され、伝来する和漢の茶入を分類し、整理、論述した不昧の自筆本。 「和漢茶壺濫觴」「和漢茶壺竈分」「和漢茶壺時代分」の3巻からなる。畠山記念館。