遺跡マップ 全体図
銀山柵内
石見銀山遺跡の中核。採掘から精錬に至るまでの銀の生産活動が一貫して行われたエリアです。 仙ノ山と要害山(山吹城)を中心にした320ヘクタールの範囲で、17世紀に周囲に柵をめぐらしていたことからこの名があります。 ここには16世紀から20世紀に至る生産活動の痕跡が、関連する生活、支配、信仰の痕跡とともに現地にほぼ完全な形で残っています。
温泉津沖泊街道
※1 火伏せ観音
その昔、西田の町に大火があった時に、この観音様がコウモリとなって火を消したと伝えられる。
※2 金柄杓(かなびしゃく)の井戸
通りかかった石見銀山の代官が、水のおいしさに感心して御礼に高価な金の柄杓を奉納したと伝えられている。この泉は昭和61年、島根の名水百選・くらしの清水に選定された。
鞆ヶ浦道
※1 胴地蔵さん
昔、馬を引く人が役人の目をかすめて銀鉱石を盗んだ。怒った役人が犯人の首をはねた。その首のない胴体を埋めて弔ったのが胴地蔵だといわれている。
※2 人切岩
その昔、妙齢の女人が旅人を誘惑し困っていた。噂を聞いた旅の武士が待ち伏せして切りつけたところ、大きな岩がみごとに切られていた。 今でも刃物で切り裂かれたように割れた巨石が残っている。
尾道道
江戸時代以降利用された銀の輸送ルート。 毛利氏支配の時代には運上銀の輸送はおもに銀山の外港である温泉津が利用されましたが、 大久保長安※1が初代奉行に就任すると、危険な海路での輸送をやめ、中国山地を輸送する陸路へと改められました。 毎年旧暦の10月下旬から11月上旬にかけて大森を出立し、約130kmの行程を途中九日市、三次、甲山の宿駅で泊まりながら3泊4日かけて尾道まで向かいました。 尾道からは瀬戸内海を通って大坂で水揚げされた後、京都銀座において幕府が発行する銀貨に鋳造されました。
※1 大久保長安
石見銀山の初代奉行。奉行所直営の掘削工事を強力に進め、鉱山経営者に経営を委託して運上を納めさせるなど積極的な鉱山政策を行い、銀の生産を活性化させた。
石見銀山案内図(PDF)
温泉津沖泊エリア
温泉津
日本海に面したリアス式海岸湾入部にあり、沖泊と隣り合わせの港町。 16世紀後半に石見銀山とその周辺地域の支配の中心地となって活況を呈しました。 また、古くからの温泉町であり、銀山支配の現地代官や著名な戦国大名、文人墨客などが逗留しました。 全長800mほどの町並みで、港から東へ向かう谷筋の通りと枝分かれする4本の枝筋に沿って家屋が立ち並びます。 江戸時代前期の配置状況と変わらず、間口の狭い短冊状地割りを引き継いでいます。 特に狭い谷部の土地利用は、かつての石見銀山と関わりながら発展した町の様子をよく伝えています。
沖泊
銀が大量に生産されるようになった16世紀後半、銀の輸送や石見銀山への物資補給、軍事基地として機能した港。 港を守るために櫛山城、鵜丸城が築かれました。 船をつなぎ止めた鼻ぐり岩なや船人の信仰を集めた恵比須神社が往時をしのばせます。 温泉津と一体となって歴史を重ねた場所であり、集落は往時の土地利用を今に引き継いでいます。
西田
降路坂
矢筈城跡
矢滝城跡
温泉津沖泊街道
※1 火伏せ観音
その昔、西田の町に大火があった時に、この観音様がコウモリとなって火を消したと伝えられる。
※2 金柄杓(かなびしゃく)の井戸
通りかかった石見銀山の代官が、水のおいしさに感心して御礼に高価な金の柄杓を奉納したと伝えられている。
この泉は昭和61年、島根の名水百選・くらしの清水に選定された。
仁摩鞆ヶ浦エリア
鞆ヶ浦
16世紀前半から中ごろにかけて銀・銀鉱石を博多に積み出した港。 石見銀山から最も近い港だったため、石見銀山開発初期の大内氏支配時代にこの港が利用されました。 後に毛利氏支配に変わると港も沖泊へ移っていきます。銀山の発見者・神屋寿禎※1 が建立したと伝えられる厳島神社や船をつなぎ止めるのに使用した鼻ぐり岩が残され、貯蔵庫跡とみられる場所からは銀鉱石が見つかっています。
※1 神屋寿禎
博多の豪商。戦国時代後半(1526)、神屋寿禎が日本海を航行中、はるか南の仙ノ山が光るのを見つけて開発に着手したのが石見銀山の始まりと言われている。
石見城跡
銀山柵内から北西5kmにあり、標高153mの岩山山頂部を利用した16世紀の山城。 日本海に近い平野部の南端にあって、仁摩方面を守備するための重要拠点でした。
鞆ヶ浦道
※1 胴地蔵さん
昔、馬を引く人が役人の目をかすめて銀鉱石を盗んだ。怒った役人が犯人の首をはねた。その首のない胴体を埋めて弔ったのが胴地蔵だといわれている。
※2 人切岩
その昔、妙齢の女人が旅人を誘惑し困っていた。噂を聞いた旅の武士が待ち伏せして切りつけたところ、大きな岩がみごとに切られていた。
今でも刃物で切り裂かれたように割れた巨石が残っている。
銀山柵内エリア
蔵泉寺口番所跡
銀山柵内の要所に設けられた口留番所の1つ。銀の不正持ち出しの監視や物資の課税徴収を行いました。 人通りの多い大森との境界にあって最も大きな規模の番所でした。
下河原吹屋跡
発掘調査によって初めて発見された17世紀初頭の銀精錬遺跡。ここでは、鉛を利用した灰吹法※1 と呼ばれる精錬法で銀を取り出していました。この技法によって銀の精錬技術は飛躍的に発展し、現在でもその原理が使われています。 石見銀山が日本の鉱業技術発祥の地と呼ばれるゆえんです。遺跡には、銀鉱石を砕いた要石や選別のために水をためていた跡などがあります。
※1 灰吹法
朝鮮半島から伝えられた金銀の製錬方法。 国内では石見銀山に最初に導入され、その後全国の鉱山に普及した。
清水谷製錬所跡
明治26年から建設され、わずか1年半あまりで閉鎖された明治の先端技術による製錬所の遺跡。
永久製錬所跡
明治20年石見銀山は大阪の藤田組に権利が譲渡されて大森銀山となり、 仁摩町大国の柑子谷永久稼所が開発の中心となりました。 同35年には発電所を建設し、電動式ポンプによる揚水で再び活況を呈しました。
山吹城跡(要害山)
仙ノ山の真向かいに位置し、標高414mの要害山頂上に築かれた山城。敵の侵入を防御するために掘った空掘や、登ってくる敵に石を落とすための竪掘などが設けられていました。 山頂からは間近に仙ノ山を望み、眼下に大森の町並みが広がります。 戦国時代の銀山争奪戦で持ち主が度々変わっていたため、何度も改築されたとみられています。 毛利氏支配になると役所が設置され、銀山支配の拠点として利用されました。
新切間歩
福神山間歩
江戸時代中期の一時期、代官所直営の間歩-御直山(おじきやま)として操業されましたが、その前後は自分山(個人所有の坑道)でした。 銀山川の下を通って仙ノ山へ掘り進んでいます。
龍源寺間歩
新横相間歩
釜屋間歩
備中出身の安原伝兵衛が夢のお告げで発見したといわれる間歩。 慶長年間に発見、採掘され、石見銀の産銀量を飛躍的に増やしました。 平成15年度の発掘調査では岩盤を加工したテラスや坑道、またテラスをつなぐ階段などが発見されました。
大久保間歩
大久保長安※1の名をとって命名された間歩で、 その大きさは石見銀山最大。長安が馬上で槍を持って入ることが出来たといわれています。
※1 大久保長安
石見銀山の初代奉行。奉行所直営の掘削工事を強力に進め、鉱山経営者に経営を委託して運上を納めさせるなど積極的な鉱山政策を行い、銀の生産を活性化させた。
佐毘売山神社
15世紀中頃創建された鉱山の守り神。 精錬の神-金山彦命(かなやまひこのかみ)を祀った神社。壮大で全国一の規模の山神社です。 文政元年の火災後、山師※1や銀掘※2 などの山稼人たちの寄付によって再建されました。
※1 山師
鉱山経営者。
※2 銀堀(かねほり)
坑道で銀鉱石を掘る人。
大森エリア
代官所跡(石見銀山資料館)
大森の町並みの北東にあり、江戸幕府が現地に置いた支配拠点施設の跡。2600㎡ほどの敷地に、 瓦葺き平屋建ての表門と左右の門長屋の建物が現存しています。 この建物は1800年の寛政の大火※1 後の再建です。敷地中央の建物は1902年建築の旧邇摩郡役所ですが、現在石見銀山資料館として利用され、 石見銀山の調査研究、資料の保存管理・公開展示、ガイダンス機能の一翼を担っています。
※1 寛政の大火
寛政12年(1800)3月24日、大森町駒の足(こまのあし)地区から出火し、大森の3/4を焼失した火事。
城上神社
江戸本所の亀井戸天満宮様式の建築。祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)-大国主命(おおくにぬしのみこと)。 永享6年(1434)、大内氏によって仁摩町馬路の高山から大森町愛宕山に遷座され、天正5年(1577)に毛利氏によって現在位置に遷座、造営されました。 寛政の大火※1にて焼失後、文化9年(1812)に再建されています。 拝殿の格天井には極彩色の竜(鳴き竜)があり、その絵の下で拍手を打つとリーン・リーンと響くといわれています。
※1 寛政の大火
寛政12年(1800)3月24日、大森町駒の足(こまのあし)地区から出火し、大森の3/4を焼失した火事。
宮ノ前地区
大森の町並みの北東端で、代官所跡の北東100mにある銀精錬の施設跡。発掘調査により16世紀末~17世紀初頭を中心とした道路跡や建物跡が発見され、 建物跡の1つは小規模ながら内部に24基もの炉跡が集中し、精錬専用の工房跡とわかります。 仙ノ山から3kmほど離れた位置にあって、産出銀の品位を高めていたと推定されます。
熊谷家
※1 寛政の大火
寛政12年(1800)3月24日、大森町駒の足(こまのあし)地区から出火し、大森の3/4を焼失した火事。
青山家
河島家
1800年代初頭に建築された地役人河島家の遺宅。組頭まで昇進した上級武家の構えを伝えています。
金森家
羅漢寺五百羅漢
蔵泉寺口番所跡
銀山柵内の要所に設けられた口留番所の1つ。 銀の不正持ち出しの監視や物資の課税徴収を行いました。 人通りの多い大森との境界にあって最も大きな規模の番所でした。
尾道道
江戸時代以降利用された銀の輸送ルート。 毛利氏支配の時代には運上銀の輸送はおもに銀山の外港である温泉津が利用されましたが、 大久保長安※1が初代奉行に就任すると、危険な海路での輸送をやめ、中国山地を輸送する陸路へと改められました。 毎年旧暦の10月下旬から11月上旬にかけて大森を出立し、約130kmの行程を途中九日市、三次、甲山の宿駅で泊まりながら3泊4日かけて尾道まで向かいました。 尾道からは瀬戸内海を通って大坂で水揚げされた後、京都銀座において幕府が発行する銀貨に鋳造されました。
※1 大久保長安
石見銀山の初代奉行。奉行所直営の掘削工事を強力に進め、
鉱山経営者に経営を委託して運上を納めさせるなど積極的な鉱山政策を行い、銀の生産を活性化させた。