石見銀山

VOL06

遺跡マップ 全体図

銀山柵内

しまねバーチャルミュージアム-石見銀山

石見銀山遺跡の中核。採掘から精錬に至るまでの銀の生産活動が一貫して行われたエリアです。 仙ノ山と要害山(山吹城)を中心にした320ヘクタールの範囲で、17世紀に周囲に柵をめぐらしていたことからこの名があります。 ここには16世紀から20世紀に至る生産活動の痕跡が、関連する生活、支配、信仰の痕跡とともに現地にほぼ完全な形で残っています。

温泉津沖泊街道

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温泉津沖泊が石見銀山支配の拠点とされ、その外港となった16世紀後半、銀の搬出と物資搬入のために利用された道。 全長12kmほどの距離があります。銀山の坂根口を出入口とし、そこから急な勾配の降路坂を越えて西田、 清水、松山を通り、途中二手に分かれて温泉津沖泊に至ります。 石畳や土橋がよく残り、道標、石仏などがあるほか、西田の火伏せ観音※1、清水の金柄杓の井戸※2 があります。

※1 火伏せ観音
その昔、西田の町に大火があった時に、この観音様がコウモリとなって火を消したと伝えられる。
※2 金柄杓(かなびしゃく)の井戸
通りかかった石見銀山の代官が、水のおいしさに感心して御礼に高価な金の柄杓を奉納したと伝えられている。この泉は昭和61年、島根の名水百選・くらしの清水に選定された。

鞆ヶ浦道

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鞆ヶ浦が銀鉱石の積出港であった16世紀前半、銀山柵内から日本海へ出る最短の銀鉱石の搬出路でした。 全長7kmほどの距離があります。銀山の畑口と吉迫口が出入口で、全行程を通して勾配があり、山中を抜ける狭い道がよく残っています。 途中には土橋や切土の道普請の跡や、往来の人々の交通安全を祈った石碑、石仏などが残ります。 「胴地蔵さん※1」、「人切岩※2」など銀鉱石の搬出や交通に関わる伝承もあります。

※1 胴地蔵さん
昔、馬を引く人が役人の目をかすめて銀鉱石を盗んだ。怒った役人が犯人の首をはねた。その首のない胴体を埋めて弔ったのが胴地蔵だといわれている。
※2 人切岩
その昔、妙齢の女人が旅人を誘惑し困っていた。噂を聞いた旅の武士が待ち伏せして切りつけたところ、大きな岩がみごとに切られていた。 今でも刃物で切り裂かれたように割れた巨石が残っている。

尾道道

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江戸時代以降利用された銀の輸送ルート。 毛利氏支配の時代には運上銀の輸送はおもに銀山の外港である温泉津が利用されましたが、 大久保長安※1が初代奉行に就任すると、危険な海路での輸送をやめ、中国山地を輸送する陸路へと改められました。 毎年旧暦の10月下旬から11月上旬にかけて大森を出立し、約130kmの行程を途中九日市、三次、甲山の宿駅で泊まりながら3泊4日かけて尾道まで向かいました。 尾道からは瀬戸内海を通って大坂で水揚げされた後、京都銀座において幕府が発行する銀貨に鋳造されました。

※1 大久保長安
石見銀山の初代奉行。奉行所直営の掘削工事を強力に進め、鉱山経営者に経営を委託して運上を納めさせるなど積極的な鉱山政策を行い、銀の生産を活性化させた。

石見銀山案内図(PDF)

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温泉津沖泊エリア

温泉津

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日本海に面したリアス式海岸湾入部にあり、沖泊と隣り合わせの港町。 16世紀後半に石見銀山とその周辺地域の支配の中心地となって活況を呈しました。 また、古くからの温泉町であり、銀山支配の現地代官や著名な戦国大名、文人墨客などが逗留しました。 全長800mほどの町並みで、港から東へ向かう谷筋の通りと枝分かれする4本の枝筋に沿って家屋が立ち並びます。 江戸時代前期の配置状況と変わらず、間口の狭い短冊状地割りを引き継いでいます。 特に狭い谷部の土地利用は、かつての石見銀山と関わりながら発展した町の様子をよく伝えています。

沖泊

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銀が大量に生産されるようになった16世紀後半、銀の輸送や石見銀山への物資補給、軍事基地として機能した港。 港を守るために櫛山城、鵜丸城が築かれました。 船をつなぎ止めた鼻ぐり岩なや船人の信仰を集めた恵比須神社が往時をしのばせます。 温泉津と一体となって歴史を重ねた場所であり、集落は往時の土地利用を今に引き継いでいます。

西田

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石見銀山と温泉津の中間にあって宿場町として栄えました。 銀山や温泉津から運ばれて来た荷物は、ここでいったん牛や馬の背から降ろされ、再び積み替えて運ばれました。 現在はヨズクハデという三角錘に組まれた稲架(ハデ)の景観保全活動が行われています。 この方法は使用する木材が少なくてすむ上に、風で倒れる心配がありません。 稲が掛かった姿がヨズク(フクロウ)に似ているので、ヨズクハデと呼ばれるようになりました。

降路坂

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石見銀山から温泉津沖泊までの 温泉津沖泊街道の中で一番の難所で、頂上付近には茶店がありました、 「降路坂の一つ目小僧」や「七騎坂※1」などいろいろな伝承が伝えられています。

※1 七騎坂
石見銀山をめぐって、尼子晴久と毛利元就が激しく戦っていました。 ある時、戦いに敗れた毛利元就は、降路坂を通って西田方面へ逃げてきました。「もはやこれまで」と、 元就は死を覚悟しましたが、七人の家来が身代わりとなって敵につっこみ、その間に毛利元就は逃げのびることができました。 この勇気ある七人が戦った場所を「七騎坂」と言い、降路坂近くの七曲がりとも、温泉津・小浜の七騎坂とも言われています。

矢筈城跡

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銀山柵内から西2.5kmにあり、標高479mの山頂部を利用した16世紀の山城跡。 東側の尾根伝いには石見銀山街道温泉津沖泊道が通る降路坂があり、さらに進むと矢滝城跡があります。 1557年頃に毛利氏が銀山の山吹城を押さえて尼子氏を攻撃し、この城をはじめ周囲3ヶ所の城から撤退させたとみられる記録があります。

矢滝城跡

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銀山柵内から南西2.5kmにあり、標高638mの山頂部を利用した16世紀の山城跡。 北側には石見銀山街道温泉津沖泊道が通る降路坂があり、 さらに進むと矢筈城跡があり、石見銀山を防備するための要衝を押さえています。 1528年には戦国大名大内氏が拠点とし、3年後の1531年には当地域の領主小笠原氏がこれを奪い銀山を支配したとの記録があります。

温泉津沖泊街道

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温泉津沖泊が石見銀山支配の拠点とされ、 その外港となった16世紀後半、銀の搬出と物資搬入のために利用された道。全長12kmほどの距離があります。 銀山の坂根口を出入口とし、そこから急な勾配の降路坂を越えて西田、清水、松山を通り、途中二手に分かれて 温泉津沖泊に至ります。 石畳や土橋がよく残り、道標、石仏などがあるほか、西田の火伏せ観音※1、 清水の金柄杓の井戸※2があります。

※1 火伏せ観音
その昔、西田の町に大火があった時に、この観音様がコウモリとなって火を消したと伝えられる。
※2 金柄杓(かなびしゃく)の井戸
通りかかった石見銀山の代官が、水のおいしさに感心して御礼に高価な金の柄杓を奉納したと伝えられている。 この泉は昭和61年、島根の名水百選・くらしの清水に選定された。

仁摩鞆ヶ浦エリア

鞆ヶ浦

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16世紀前半から中ごろにかけて銀・銀鉱石を博多に積み出した港。 石見銀山から最も近い港だったため、石見銀山開発初期の大内氏支配時代にこの港が利用されました。 後に毛利氏支配に変わると港も沖泊へ移っていきます。銀山の発見者・神屋寿禎※1 が建立したと伝えられる厳島神社や船をつなぎ止めるのに使用した鼻ぐり岩が残され、貯蔵庫跡とみられる場所からは銀鉱石が見つかっています。

※1 神屋寿禎
博多の豪商。戦国時代後半(1526)、神屋寿禎が日本海を航行中、はるか南の仙ノ山が光るのを見つけて開発に着手したのが石見銀山の始まりと言われている。

石見城跡

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銀山柵内から北西5kmにあり、標高153mの岩山山頂部を利用した16世紀の山城。 日本海に近い平野部の南端にあって、仁摩方面を守備するための重要拠点でした。

鞆ヶ浦道

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鞆ヶ浦が銀鉱石の積出港であった16世紀前半、銀山柵内から日本海へ出る最短の銀鉱石の搬出路でした。 全長7kmほどの距離があります。銀山の畑口と吉迫口が出入口で、全行程を通して勾配があり、山中を抜ける狭い道がよく残っています。 途中には土橋や切土の道普請の跡や、往来の人々の交通安全を祈った石碑、石仏などが残ります。「胴地蔵さん※1」 「人切岩※2」など銀鉱石の搬出や交通に関わる伝承もあります。

※1 胴地蔵さん
昔、馬を引く人が役人の目をかすめて銀鉱石を盗んだ。怒った役人が犯人の首をはねた。その首のない胴体を埋めて弔ったのが胴地蔵だといわれている。
※2 人切岩
その昔、妙齢の女人が旅人を誘惑し困っていた。噂を聞いた旅の武士が待ち伏せして切りつけたところ、大きな岩がみごとに切られていた。 今でも刃物で切り裂かれたように割れた巨石が残っている。

銀山柵内エリア

蔵泉寺口番所跡

銀山柵内の要所に設けられた口留番所の1つ。銀の不正持ち出しの監視や物資の課税徴収を行いました。 人通りの多い大森との境界にあって最も大きな規模の番所でした。

下河原吹屋跡

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発掘調査によって初めて発見された17世紀初頭の銀精錬遺跡。ここでは、鉛を利用した灰吹法※1 と呼ばれる精錬法で銀を取り出していました。この技法によって銀の精錬技術は飛躍的に発展し、現在でもその原理が使われています。 石見銀山が日本の鉱業技術発祥の地と呼ばれるゆえんです。遺跡には、銀鉱石を砕いた要石や選別のために水をためていた跡などがあります。

※1 灰吹法
朝鮮半島から伝えられた金銀の製錬方法。 国内では石見銀山に最初に導入され、その後全国の鉱山に普及した。

清水谷製錬所跡

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明治26年から建設され、わずか1年半あまりで閉鎖された明治の先端技術による製錬所の遺跡。

永久製錬所跡

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明治20年石見銀山は大阪の藤田組に権利が譲渡されて大森銀山となり、 仁摩町大国の柑子谷永久稼所が開発の中心となりました。 同35年には発電所を建設し、電動式ポンプによる揚水で再び活況を呈しました。

山吹城跡(要害山)

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仙ノ山の真向かいに位置し、標高414mの要害山頂上に築かれた山城。敵の侵入を防御するために掘った空掘や、登ってくる敵に石を落とすための竪掘などが設けられていました。 山頂からは間近に仙ノ山を望み、眼下に大森の町並みが広がります。 戦国時代の銀山争奪戦で持ち主が度々変わっていたため、何度も改築されたとみられています。 毛利氏支配になると役所が設置され、銀山支配の拠点として利用されました。

新切間歩

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御直山※1の「五カ山※2」の1つ。 正徳5年、坑道内にたまった地下水を抜くための疎水坑として開発されましたが、享保年間に鉱脈に掘りあたりました。 安政5年の記録には、銀掘17名、柄負山2名、手子8名が働いていたと記されています。

※1 御直山(おじきやま)
代官所直営の間歩(坑道)。
※2 五カ山(ごかざん)
御直山の中でも特に重要な龍源寺間歩、 永久稼所、大久保間歩、新切間歩、新横相間歩の5つを指す。

福神山間歩

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江戸時代中期の一時期、代官所直営の間歩-御直山(おじきやま)として操業されましたが、その前後は自分山(個人所有の坑道)でした。 銀山川の下を通って仙ノ山へ掘り進んでいます。

龍源寺間歩

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江戸時代中期、代官所直営の間歩-御直山(おじきやま)-として操業されました。 「五カ山※1」の1つ。昭和63年の発掘調査で坑口付近の建物、鉱脈探査の試掘跡などが発見されています。 平成元年に栃畑谷へ通り抜けられるようになり、坑道内部が見学できます。

※2 五カ山(ごかざん)
御直山の中でも特に重要な龍源寺間歩、永久稼所、 大久保間歩新切間歩新横相間歩の5つを指す。

新横相間歩

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江戸時代中期以後の御直山※1で「五カ山※2」の1つ。幕末には約50人が坑道で働いていました。

※1 御直山(おじきやま)
代官所直営の間歩(坑道)。
※2 五カ山(ごかざん)
御直山の中でも特に重要な龍源寺間歩、永久稼所、 大久保間歩新切間歩、新横相間歩の5つを指す。

釜屋間歩

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備中出身の安原伝兵衛が夢のお告げで発見したといわれる間歩。 慶長年間に発見、採掘され、石見銀の産銀量を飛躍的に増やしました。 平成15年度の発掘調査では岩盤を加工したテラスや坑道、またテラスをつなぐ階段などが発見されました。

大久保間歩

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大久保長安※1の名をとって命名された間歩で、 その大きさは石見銀山最大。長安が馬上で槍を持って入ることが出来たといわれています。

※1 大久保長安
石見銀山の初代奉行。奉行所直営の掘削工事を強力に進め、鉱山経営者に経営を委託して運上を納めさせるなど積極的な鉱山政策を行い、銀の生産を活性化させた。

佐毘売山神社

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15世紀中頃創建された鉱山の守り神。 精錬の神-金山彦命(かなやまひこのかみ)を祀った神社。壮大で全国一の規模の山神社です。 文政元年の火災後、山師※1や銀掘※2 などの山稼人たちの寄付によって再建されました。

※1 山師
鉱山経営者。
※2 銀堀(かねほり)
坑道で銀鉱石を掘る人。

大森エリア

代官所跡(石見銀山資料館)

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大森の町並みの北東にあり、江戸幕府が現地に置いた支配拠点施設の跡。2600㎡ほどの敷地に、 瓦葺き平屋建ての表門と左右の門長屋の建物が現存しています。 この建物は1800年の寛政の大火※1 後の再建です。敷地中央の建物は1902年建築の旧邇摩郡役所ですが、現在石見銀山資料館として利用され、 石見銀山の調査研究、資料の保存管理・公開展示、ガイダンス機能の一翼を担っています。

※1 寛政の大火
寛政12年(1800)3月24日、大森町駒の足(こまのあし)地区から出火し、大森の3/4を焼失した火事。

城上神社

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江戸本所の亀井戸天満宮様式の建築。祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)-大国主命(おおくにぬしのみこと)。 永享6年(1434)、大内氏によって仁摩町馬路の高山から大森町愛宕山に遷座され、天正5年(1577)に毛利氏によって現在位置に遷座、造営されました。 寛政の大火※1にて焼失後、文化9年(1812)に再建されています。 拝殿の格天井には極彩色の竜(鳴き竜)があり、その絵の下で拍手を打つとリーン・リーンと響くといわれています。

※1 寛政の大火
寛政12年(1800)3月24日、大森町駒の足(こまのあし)地区から出火し、大森の3/4を焼失した火事。

宮ノ前地区

大森の町並みの北東端で、代官所跡の北東100mにある銀精錬の施設跡。発掘調査により16世紀末~17世紀初頭を中心とした道路跡や建物跡が発見され、 建物跡の1つは小規模ながら内部に24基もの炉跡が集中し、精錬専用の工房跡とわかります。 仙ノ山から3kmほど離れた位置にあって、産出銀の品位を高めていたと推定されます。

熊谷家

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代官所跡から南西50mにあり、町の通りに面して建つ大森地区最大の商家建築。 熊谷家は金融業などを営みながら、町役人や代官所の御用商人を務め、 19世紀には大森の中で最も有力な商家の1つとして栄えました。 現在の建物は寛政の大火※1後の再建ですが、 その後順次整えられていった屋敷構えの変遷や生活ぶりがうかがえる貴重な商家建築です。

※1 寛政の大火
寛政12年(1800)3月24日、大森町駒の足(こまのあし)地区から出火し、大森の3/4を焼失した火事。

青山家

しまねバーチャルミュージアム-石見銀山

江戸時代に設けられた郷宿※1の1つである田儀屋の遺宅。 漆喰塗込めの外壁で、大森では唯一の妻入り形式の店構えとなっています。

※1 郷宿(ごうやど)
銀山領内の村々から公用で代官所に来る際に村役人が宿泊した宿。 代官所へ提出する書類を作成したり、 代官所からの触書を村方へ伝達するなど、 代官所と村方とを取り次ぐ重要な役割を担っていた。

河島家

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1800年代初頭に建築された地役人河島家の遺宅。組頭まで昇進した上級武家の構えを伝えています。

金森家

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江戸時代に設けられた郷宿※1の1つである泉屋(旧河北家)の遺宅。 同家の川北甚右衛門通賀は羅漢寺や五百羅漢の造営に尽力したことで知られています。 商家としては熊谷家に次ぐ規模の建物で、寛政の大火※2を免れたと伝えられています。

※1 郷宿(ごうやど)
銀山領内の村々から公用で代官所に来る際に村役人が宿泊した宿。 代官所へ提出する書類を作成したり、 代官所からの触書を村方へ伝達するなど、 代官所と村方とを取り次ぐ重要な役割を担っていた。
※2 寛政の大火
寛政12年(1800)3月24日、大森町駒の足(こまのあし)地区から出火し、大森の3/4を焼失した火事。

羅漢寺五百羅漢

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大森地区の南端、銀山柵内蔵泉寺口番所跡近くにある信仰遺跡。 岩盤斜面に3ヶ所ずつの石窟があり、中央窟に石造釈迦三尊仏を、左右両窟には250体ずつの石造羅漢坐像を安置しています。 1757年羅漢寺住職と大森代官所役人が発願し、石見銀山や日本全国の幕府直轄地の有力武士や町民などの寄付を得て1766年に完成しました。 3基の石橋や1基の祈念塔を含め、石見銀山の石工技術をよく表わした貴重な石造作品です。

蔵泉寺口番所跡

銀山柵内の要所に設けられた口留番所の1つ。 銀の不正持ち出しの監視や物資の課税徴収を行いました。 人通りの多い大森との境界にあって最も大きな規模の番所でした。

尾道道

しまねバーチャルミュージアム-石見銀山

江戸時代以降利用された銀の輸送ルート。 毛利氏支配の時代には運上銀の輸送はおもに銀山の外港である温泉津が利用されましたが、 大久保長安※1が初代奉行に就任すると、危険な海路での輸送をやめ、中国山地を輸送する陸路へと改められました。 毎年旧暦の10月下旬から11月上旬にかけて大森を出立し、約130kmの行程を途中九日市、三次、甲山の宿駅で泊まりながら3泊4日かけて尾道まで向かいました。 尾道からは瀬戸内海を通って大坂で水揚げされた後、京都銀座において幕府が発行する銀貨に鋳造されました。

※1 大久保長安
石見銀山の初代奉行。奉行所直営の掘削工事を強力に進め、 鉱山経営者に経営を委託して運上を納めさせるなど積極的な鉱山政策を行い、銀の生産を活性化させた。